しろいはなび

twitterでは手狭に感じてきたのでブログを始めてみました。

【M男本】女主人(LA SIORA) 誘い 橘涼香 感想

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テレビでSMを特集する際には必ずといっていいほど取材されるSMバー『アマルコルド』のプロデュース(芸能人が縛られたり、檻に入れられたりして、「目覚めちゃいそう」などとやっているあれ)や、名門SMクラブ「ラ・シオラ」の主宰など、今もって幅広く活躍されている朝霧リエ氏のことが気になっている。

 

ブログでの文章からお人柄を想像するに、一本芯の通った御方であろうなと想像できる。また日本のSM文化の立役者であり、ミストレスとしてだけでなく、その経営者としての才能を発揮されているようだ。

 

彼女のことが気になってネットで調べていたら、ラ・シオラ在籍の橘涼香という女性が朝霧リエ氏について書かれているとのことで、さっそく取り寄せて読んでみた。

 

結論から言うと、ちょっと拍子抜けではあった。編集の方針に助平心が見え隠れしていて、全体的にとっちらかってる感じがある。章構成は、

 

1.志摩紫光氏のインタビュー

2.朝霧リエ氏のインタビュー

3.ラ・シオラ在籍女性のインタビュー

4.SMパーティのルポコミック

5.著者のエッセイ

6.ラ・シオラ在籍女性から見た橘涼香氏の印象

 

となっている。どの章も中途半端に色々と取り込んでみた、という印象がどうしても拭うことはできない。

 

これは完全に自分の早とちりなのだが、てっきり新約聖書のように朝霧リエ氏の薫陶が橘涼香氏の言葉で書かれている本だと思っていた。

 

ただ傍線を引いたところはたくさんあって、その中でもとくに印象深かった2つをここに記しておく。

 

SMをやっているというと暗い女性が連想されがちなのに驚かされたことがある。人を服従させるということは、惹きつけるのと同じなのに。人が魅了される理由はいくつもある。でもいつもどんな世界であっても、誰かに救われる理由は天真爛漫。

 

というわけで、相手を「どうせここまで」と割り切ってしまい、開花の芽を摘んでしまうことも「してはならないこと」。

 またSにしてもMにしても、自らの欲求に忠実になることが大事です。

(中略)

 SMは、肉体より精神の快楽を求めて相手と関わりあうもの。そして、志向の違う相手同士が一緒に高まり合うもの。とても高度なコミュニケーションの取り方だと思います。

 そのコミュニケーションを楽しく行うにはどうしたらよいか。それはまず第一に「相手を思いやること」です。

 

 

 

昨今、とくにインターネットで、「男性」と「女性」の論争が目に余る。もちろん、インターネットでこのような論争に参戦しているのは、男女関係に不満を抱えた人間であろう。

 

しかし、どうして、こんな、「デートでサイゼリヤはアリかナシか」や「デートで吉野家に連れて行っても嫌な顔をしない女性はモテる」や「性行為の同意サインは何か」や「デートの時の奢り奢られ」など、とんでもなく幼稚な議論を、幾度も繰り返しているのだろうか、と愕然とする。

 

しかも、文字の羅列の論理からしか結論を導き出すので、どちらも現実から乖離した極論を飽きるまでぶつけ合い、数週間後には、それまでの議論をすっかり忘れたかのように、同じ話をし始める。

 

そのような中で、SM、とりわけ、男女の力関係が逆転したfemdomは、逆転しているからこそマジョリティの異性関係では気付くことのできない多くの示唆を与えてくれるように思う。

 

この本で、朝霧リエ氏の「コミュニケーションとしてのSM」の思想に触れてみるのも男女関係を考えてみるきっかけになれば良いと願う。

 

本のアプリstandで、この本が登録されていなかったので、こちらのブログに記録しておくことにする。

 

女主人(LA SIORA) 誘い

女主人(LA SIORA) 誘い

 

 

新宿歌舞伎町TSミュージックにストリップショーを観に行った話。

https://www.instagram.com/p/BMzBxo_D8-v/

instagramからの転載です

 

ストリップショー見てきました。2017年1月に閉館してしまうということで閉まる前に行けてよかった。
ここ最近、ストリップを見に行ってきた女子、のブログエントリー(多分だけど暇な女子大生がストリップに行った記事がbuzzのがきっかけ?)がけっこう流れてきて、自分がフォローしているひとにも熱心にストリップについてツイートしているひとがいて、色々と状況が変わってきたんだなあ、とか思ったりもします。とても混んでいて自分は出入り口付近にいたので出入りの客の顔が確認できたのですが五人くらいは女性のお客さんが入ってきたし、女性一人でも来ているひともいた。

短い文章で沸き起こった感情をまとめることができないので、だらだらと長くなってしまう。でもinstagramは文字数制限が無いので思いつくまま書いてみることにする。

サイバーフェミニストたちがエロにたいして厳しい批判を加えることへの気持ちって「女性自身の人格が無視され蹂躙されている」ように感じているからだと思うのだけれど、ストリップにはそういうものは感じない。むしろポジティブな感じで(そこに女性の気持ちがどれだけ斟酌されているのかは正確に量り取ることはできないけれど)、ふわふわとした【女性】なるものの身体への敬意で溢れている。【女性】を宿った綺麗な身体への敬意、みたいなもの。(【女性】は性別を表すものではなく神や妖怪のような概念としての【女性】)衣装を脱げばぱちぱちぱち~、まんこを開けばお~ぱちぱち~、と拍手と歓声が起こってて、それはとても平和で幸福な空間に見えた。

バンドマンばかり好きになる女の子は「そのひとの一番かっこいい瞬間を見ることができるからバンドマンのことを好きになる」と言っていたけれど、そのことを舞台に上がっている女の子を見ながら思った。もちろん、女性の身体は鍛えられていることもあって綺麗だし、乳首もまんこも綺麗だし、なにより肌も吹き出物とか無くてコンピューターグラフィックスのようだったけれど(いったいどういう生活を送ったらあんなに綺麗な肌を保ち続けられるのだ?)、それにしても、舞台に上がっている女の子の姿はとても魅力的だ。多分だけれどその舞台に上がっている女の子が一番可愛く見える瞬間を見ることができているんだと思うと、とても貴重な瞬間を目撃している気持ちになった。

それと同時に、【女性】を宿すことができる身体を持っている性って羨ましいな、と嫉妬のような感情を身の内に宿していた。劇場にいる四五十人の客たちの前でまんこを開いて見せれば「お~」というため息にも似た歓声とともに拍手が起きる。それはとても面白い光景だ。秋の来なかった2016年11月は寒く厚着をしている男性ばかりで舞台に上がる女性だけが裸だ。
ストリップショーにはポラロイドという時間がある。ショーが終わったあとにいくばくかのお金を払って女性と話をしながら好きなポーズを取ってもらって写真を撮れるというサービスなのだけれど、毎回狭い劇場内に行列ができて、なかなか途切れることはなかった。(ポラロイドカメラはもう使われてなくてコンパクトデジタルカメラなのだけれど)どうやらフォロワーのエントリによるとあれは劇場の取り分で女性にお金が払われるわけではないようだけれど、、、
自分の身体でもって(後天的なものではなく)他人を魅了することができて、それを求めて行列ができるってすごく羨ましい!男性の身体って汚いものとされているし、見ても誰も喜ばないから余計にそう思うのかもしれない。子どものときに買ってもらえなかったおもちゃを持っている友達に嫉妬したときに似た感情を抱いた。良いな!まんこ!
ママ!まんこほしい!買ってよ!ネエイイデショ!

それと当たり前なのだけれど、【女性】の身体を見つめ続けられるのはとても楽しい。普段生活しているとおっぱいやらお尻などを見るのは失礼だし、いくら街中で可愛い女の子を見つけたからといって十秒も見つめていたら睨まれてしまうけれど、劇場内ではずーっと凝視することができる。背中の筋肉の動きや手足の末端の動きや表情筋の変化までずっと見ていることができる。
自分も他の日本人と違わず顔を見ながら話すのが苦手なのだけれど、それはひとの目を見ていると自分の中に産まれる緊張感が居心地の悪さを感じさせられるからだけれど、劇場にはそういうのはない。自分がどんな表情をしていなければならないかを考えることなく、ただにこにこしていればいい。これはとても癒やされる経験だった。

つらつらと思ったことをすべて書いてみた。自分はここと浅草ロック座しか行ったことないけど、ストリップって観に行った方が良いと思うよ!とくに女性性を背負いきれない女性が観に行ったら良いんじゃないかなあ。

東京は焼け野原にならない

日々、各地で大きな地震が起きている。そして我々の不安は最高潮に達している。「次はきっと東京だ」「関東大震災が来る」と。

 

これはわたしの個人的な感想であるが、その「関東大震災」について思いを馳せるとき、かすかな期待すらもあると思う。原発が爆発しても壊れなかった東京の日常は「関東大震災」が来たときに壊れる。そして東京は焼け野原になる。そう、あの終戦直後の東京の風景のようにすべてが更地になる。もしくは阪神大震災のように高速道路が陥落し辺りのビルが倒壊し、すべてがご破算になってしまう。その、ご破算を心のどこかで願っていないと言ったら嘘になる。

 

なんだかぱっとしない日常が崩れて、それまでの体制やシステムがすべて崩壊して、みんなが新しいスタートを切る、あの終戦直後の焼け野原のまっさらな東京の風景、というものを期待する幼稚な心性が存在している。そして、そう願っているのは何も自分だけではないのだろう、とも考えている。東京に震災が来たらどうなるかというシミュレーションする番組は、必要以上におどろどろしく、まるで世界が滅亡するような感じで描く。それは、ジェットコースターの頂上のような不安を煽っているみたいだ。

 

それはかつて世紀末のときにノストラダムスの大予言なる迷信が流行り、人類は21世紀を迎えることなく死ぬとみんなが信じていたときのようだ。あの、世紀末のときと違うのは、期限がないことだ。どこかで聞く大地震の話に震え、次こそは、次こそは、と期待する。

 

 

しかし、おそらくだけど、きっと、「関東大震災」なるものが来たとしても(いつかは来るだろう)きっと、焼け野原にはならないし、日常は壊れないんだと思う。確かに電車は止まるだろうし、不通区間は出るだろう。震災当日は東京中の人たちがぞろぞろと歩いて帰ったり肩を寄せ合って不安な夜を過ごしたりするんだと思う。それは一種のお祭り状態になるはずだ。日常とは違う、お祭り。

確かに死んでしまう人も出てくるだろう、火事も起きるかもしれない、怪我をするひとも出てくるだろう、だけど、それで東京が焼け野原になったり瓦礫の山になったり数か月、数年にわたって使えなくなるなんてことはきっと起きらない、ような気がしてきた。

地震が起きて数日は電車が止まったり電気水道などのインフラが止まったりするだろうが、一週間も経てば、なんとなく元通りの日常に移行して、ビルの外壁や窓ガラスが割れているな~なんてことを思いながら出勤や登校をし、オフィスで家庭で学校で、そのとき身に起こった体験談を話し合いながら「こわかったね~」と言って、それまでの日常と変わらない地続きの日常が始まり、だらだらと続くんだと、、、そんな気がしてならない。

物語としてのポケモンGO

anond.hatelabo.jp

 

ポケモンGOの面白いところは現実の世界にポケモンというレイヤーをかけたことで、これって物語としての原初的な姿なんじゃないだろうか、と思っている。

 

現実世界には物語――フィクションと言ってもいいのかもしれない――で溢れている。たとえばディズニーランドとかもそうで、現実には存在しなかったウォルトディズニーの頭の中だけに存在したキャラクターが現実世界に出てきて、握手をしたり記念撮影をしたりしている。そして実際の街が形成されている。

そう大がかりな仕組みでなくても亀有に行けばなんとなく「あ~ここが両津さんの……」と思うだろう。それは現実世界上に物語と言う層が上書きされている。

 

たとえばお金だってそうだろう。お金はもっとも多くのひとが信じているフィクションだ。あの紙や金属の破片に多くの人が価値を見出しているために成立している。だからその物語の価値を脅かす偽札は厳しく罰せられている。

 

わたしたちが普通に信じている年号もそうだ。2016年前にキリストという神の子が生まれ世界を救う物語が元になっている。キリスト教を信じているものにとって自明の物語だけれど、キリスト教を信じていない人間にとっては、ただの空想の物語にすぎない。

 

言ってみればポケモンは心霊現象と似ている。ポケモンGOをやっているひとにとってポケモンそこにある。不忍池にはコイキングがいるし、道端にはコラッタやポッポがいて、どこかの公園にはカイリューが存在しているし、そこの郵便局はジムだ。だけれど、ポケモンをやっていないひと(つまり幽霊が見えないひと)にとっては、その存在は無い。コイキングはいないしコラッタはいないしカイリューは存在していないし、そこはただの郵便局だ。だからこそポケモンGOをプレイしていないひとにとって奇異に写る。

 

物語と現実の境界、というのは定型文で揶揄されることも多いけれど、その区別というのは昔から曖昧だった。ポケモンGOは新たな物語の語り方の一つなんじゃないか、と思うし、これからもっと位置情報ゲームが増えて新たな物語の可能性を見てみたいと思う。

ポケモンGOの「ほんとにいるんだって言う」感じ

ポケモンGO楽しいです。もともと位置情報ゲームは好きで色々やってきているんですが、そのなかでもポケモンGOはかなり面白い方のゲームです。どの位置情報ゲームもそれぞれ「もっとこうしたらいいのになあ」という点はありましたし、ポケモンGOもたくさんあります。ソーシャル要素が薄く他のプレイヤーの姿が画面上に反映されない、とか、ポケモンを愛でる要素が足りない、とか、ゲームデザインに戦略性が乏しいため上達できる余地が残っていない、とか、不満は多いものの、ほかのどの位置情報ゲームより面白い。

それは「ポケモン」であるという一点がとても強い。現実のレイヤーにポケモンが「存在」するというのはとても面白い。あの茂みのなかにポッポやビードルがいる。あの観光地にはミニリューがいる。いつも通っている道でカイリューを見つけた、こういう感覚は、駅前を自分の色に染めることとか、駅を美少女に守らせるとか、移動距離で世界一周したとか、喫茶店の市長になった、とかそういう他の位置情報ゲームにはない、面白さだ。

ポケモンがいる」と言う感覚はとても面白い。現実世界にポケモンというレイヤーを重ねることによって別の現実が立ち上がり、それを多くのひとたちがポケモンという「幻想」を共有するというのは不思議な楽しさがある。それって「物語の語り」の新しい形の一つなんだと思う。

だからこそ、もうちょっとポケモンを可愛がらしてくれる要素がほしいなあ、と思ったりする。今日も雨のなかで自分のカイリューくんが公園を守っている。健気やんな~。

家の近くにラーメン屋さんができたんだよ

https://www.instagram.com/p/BFENCIMwnZ9/

ぶつくさ言いながらも何気に気が付けば3回目、塩豚骨。

 

久しぶりの更新になりました。なんとなくブログから離れてしまいました。まあ手巻き煙草レビューなんてことをしてたのですが、結局「どれもそれなりに美味しいし面白い」という感想にしかならないなあ、ということに気が付いてしまったことと、少しネットから距離を置いておきたいと思いました。ネットで話題になるあれこれについて色々考えても、なんか悪い方向に引っ張られるなあと思って、バズったりする話題からは極力距離を置きたかったのです。(ネットに絡め取られると、途端に攻撃性が増し鬱的になってくるような気がします。世の中には見なくていいこともたくさんありますし、綺麗なものを見ればいいのです)

 

自宅の近く、と言っても徒歩で三十分の圏内に家系ラーメンのお店ができました。以前住んでいたところは、常時三件か四件くらい(背脂チャッチャ系、ラーメンショップ系、つけ麺のお店)あったのですが、鎌倉に移り住んでからは初めてです。食べログを見てみると戸塚に本店があるようなのですがなんか個人経営っぽいアットホームな感じが出ていて、なんとなく応援したくなるお店なのです。

 

家の近くにあると通いやすくなり、もうなんだかんだで六回は通っています。色々な味を試してみています。家系と言っても醤油、塩、味噌、の三種類の味があって、あまり通わなければ定番の醤油を選ぶのですが、一応全種類試してみました。塩は思ったより豚骨の味が前面に出てけっこう美味しいです。醤油のしょっぱさも良いですがより豚骨スープ感を味わいたいなら塩も良いんじゃないかと思います。ただ味噌は個人的にはいまいちって感じでした。なんかあんまり豚骨感を感じられないわりに油っこく(ラー油?なのかな?)食べるのが辛かったですね。

 

家系ラーメンには二郎で言う「にんにく入れますか?」に相当するものがあり、「お好みはありますか?」と聞かれます。それで麺の固さと味の濃さと油の多さを決められるのですが、昔は「固め、濃いめ、多め」を注文していたのですが、最近では標準を選ぶようになりました。歳を取ってしまったんでしょうか笑

 

味の濃さはこのお店で濃くするとけっこう濃くなります。しょっぱすぎるのギリギリまでしょっぱいのでいつも普通でお願いしています。それと油を多めにすると全体的に味がマイルド方面にシフトするみたいです。この辺の組み合わせで味が変化するのが面白くて通っては色々注文して遊んでみてます。(ただこの家系ラーメンに入っているのが鶏油と書いて「ちーゆ」というものらしいですが、背脂で育った人間からするとどうしても背脂が入ってたら美味しいだろうになーなんて思ってしまいます。鶏油って家系ラーメンに入っているとあんまり味が分からないんですよね。違う油が入っていたとしてもきっと気が付かないんじゃないかなあなんて)

麺の固さですが、固めで注文する方が多いみたいですね。まだ柔らかめというのを注文したことがないので今度それでやってみようと思います。

 

 

自分が住んでいるところを少しでも好きになれたらと思ってちょっとずつ色んなお店に行ったり調べたりしてみています。この前は藤沢にできた「いきなりステーキ」に行きましたし、コメダコーヒーやルノアールに行って原稿をするのが最近楽しいのですがその話はまた今度別の機会に。

 

久しぶりにブログ用の文章を書くとなんだか辿々しいなって。

 

【手巻き煙草】サーフサイド ピニャコラーダ

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先日吸ったチョイスシリーズからダブルバニラが発売されたと行きつけの煙草屋のブログで知った。あ、気になる、吸ってみたいと心駆り立てられた感情がわき起こり、これは相当手巻き煙草にハマってきているなあと思った。

チョイスのダブルアップルが予想以上に美味しく、吸い心地もマイルドでフレーバーの効き具合もちょうど良かったためにコルツとならび好きな銘柄になった。しかしまだ吸い終わっていないシャグがあるのでそれを吸い終わってからでないと。笑

 

今回はサーフサイド ピニャコラーダです。ピニャコラーダというのはココナッツジュースとパイナップルジュースのカクテルでちょっとお洒落な飲み屋さんに行くと置いてあったりします。わりとアルコール度数が低いことが多いので見かけるとこれを頼むことも多いです。

 

シャグ自体はとても乾燥しています。そのまま吸ってみると過度に燃焼してしまうので少し加湿してから吸った方が良いと思います。いままで見たことのない感じの明るい色の葉に粗めの刻みでしょうか。

 

シャグ自体の匂いを嗅ぐと柑橘系の匂いのが先に感じられ、そのあとにココナッツのむっとした匂いがくる感じですが、火を付けて吸ってみるといまいちパイナップルの柑橘系の匂いは引っ込んでココナッツの匂いが前面にかぎ取れます。ココナッツは初めてなので他との比較はできませんが、けっこうココナッツらしさを感じ取れるのではないでしょうか。

 

いつも使っているフィルターのPUREエクストリームロングで巻く場合、葉を気持ち多めに詰めた方が煙の量とフレーバーの匂いを良く感じ取られると思いました。

 

20gという少なさも嬉しいところ。30g以上あると最後まで吸い切るまでに飽きてしまっていまいち最後まで楽しめないのでこれくらいの少量で色々な銘柄に浮気していくのがわたしには合っているようです。(スタンレーカシスは後半はちょっと飽き気味というか、いまいちフレーバーの味が吸ってみると舌で感じにくく、飽きてしまいました。これは自分の味覚の問題なのかそういうフレーバーなのかどちらなのでしょうか。)