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しろいはなび

twitterでは手狭に感じてきたのでブログを始めてみました。

祖父が死んだ話

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ずっと、きちんと書かなければ、と思っているのだけれど、何から書き始めればいいのか分からなくて、何度も書き散らしてみるけれど、なかなか上手く書けないことがある。

 

祖父が死んだ。

 

つまりは、これについて書きたい。ほぼ一年前の五月、わたしは生まれてからずっと住み慣れた西新井の街を離れて家族ともども鎌倉に移り住むことになった。祖父が老化によって体力が衰えてきたから、というのが理由だ。(遺産の相続におけるわたしの家族の責務――祖父の老後の面倒を見る――ということもあるのかもしれないけれど、わたしにとっては埒外のことだ)とは言っても祖父は病気らしい病気はしていなかったし、介護が必要な状態ではなかった。

 

祖父とは歳が離れすぎているし、関心領域もまったくかけ離れている。一応、文学への興味もあるらしいのだけれど、それにしたって現代文学や海外文学を読んでいて、日本文学史的な小説家は数えるほどしか読んでいない自分にとっては、祖父と話せるほどでもないし、祖父の書棚を見ると、山や科学や自然、仏教に興味があるらしかった。

そんなことで、わたしは祖父と一緒に住んでいたけれど、ほとんど会話らしい会話は数えられるほどしかしていない。

わたしはそれでいいと思っている。そういうものなのだ、と思っている。

 

それでも、祖父はわたしの誕生日をずっと覚えてくれて、毎年、誕生日になると誕生祝いをくれたし、些細なことだけれど、郵便を出さなければならないときには、切手をくれたりしてくれたし、わずかばかりの植物を育てているときに、土や肥料について教えてくれたり分けてもらったりしていた。優しかった祖父だ。

 

90歳にして頭もしっかりしていて、大病らしい大病も見つかっていなかった祖父は、ああ、このままだったら100歳は超えるのかなあ、なんてことも思っていたほどだ。

 

5月の初旬だった。ここ最近咳が止らないと言ってかかりつけ医のもとに診察を受けに行った。風邪か何かか喘息かと言っていたが、祖父はそれきり家に帰ってくることはなかった。

 

かかりつけ医に診てもらった結果、精密検査が必要だということで、藤沢本町にある藤沢市民病院で検査を受けた。MRT(だったかな)という身体を輪切り状にスキャンした結果、末期の肺癌が発見された。年齢のことを考えても手の施しようがないということだった。

祖父は慎重な性格なので、健康診断は欠かさなかったし、レントゲン検査も受けていたのだけれど、それでも発見されなかった。

 

わたしと祖父は、同じ家に住んでいながらもほとんど交流を持たなかったけれど、祖父のいない家はとてもがらんとしていた。見慣れていたものがなくなったそのことにショックだった。祖父の部屋の気配が消えている(それはいつもは夜になると閉められるカーテンだったり、検診に行くために脱いで放置された靴下を発見したときだ)のを発見するたびに、胸が締め付けられる思いがした。

 

見舞いに行った祖父は思ったよりも元気だった。というか、祖父の姿を直視したのはこのときが初めてだった。

祖父は、人生を山登りに喩えていた。会社を退職するまでが第一の山、それから30年くらいの生活が第二の山、そしてこれから仏さまのもとに行くのが第三の山、である。そしてわたしに、「おじいちゃんが山を登っていくのをちゃんと見ておくんだよ」と言われた。そしてカメラで記録しておいてくれ、と頼まれた。

 

 

延命のための治療はいっさいしないということだった。そして余命もいつかは分からなかった。肺癌が気道を圧迫しているためになにかしらの原因で喉を詰まらせてしまえばすぐにでも死んでしまうし、肺癌の明確な進行度は細胞を取ってこなければ分からず、それも拒否したということだった。

 

藤沢市民病院での入院生活は20日で終わり、辻堂の湘南中央病院のホスピス病棟に移った。広々とした個室で面会の制限もなく、いわゆる病院らしさは丁寧に排除された施設だ。なにより個室の窓からは江ノ島が見える。

 

祖父との面会しているとき、日常的な世間話をするようになった。最近、わたしがやっていることや、出かけていった場所や、美術展の話をしたりする、とても穏やかな祖父と孫らしい会話だった。

 

 

 

「祖父が死にそうだ」という連絡をもらうというシチュエーションは以前から頭をよぎっていたことだ。滅多にならない携帯電話が鳴り着信が家族からだと、ああ、もしかして祖父が危篤だ、という連絡なのかも、と一瞬だけ頭をよぎったことが何度かある。ゼミの間に家族から電話がかかってきたときは、「祖父が危篤かも」という思考が頭を渦巻いていてもたってもいられなくて、教室を抜けだしてかけ直したこともある。なぜこういう思考をしていたのか分からないけれど、そうだったのだ。

これから実際はどうだったか、ということを書くつもりだ。

 

疲れ果てて帰ってきた日のことだ。風呂に入って雑事を済ませいつも通りに布団に潜り込んで寝ていた。

 

電話の音で目が覚め、両親が堅い声質でなにやら答えていた。母が「おじいちゃんが危ない」と父を起こす音が聞こえているけれど、わたしは疲れ果てていたので、ああこれは夢かもしれない、と思ってもう一度寝ようとし始めたけれど、だんだんと頭が覚醒し始め、事の重大さに気が付き始める。

 

祖父が喀血したという報告を病院から受け、家族揃ってタクシーに乗って深夜の病院に駆けつける。(深夜の散歩が趣味なのでああ、この辺はいつも深夜ラジオやポッドキャストを聞きながら通っているなあと思いながら車窓を眺めていた)

 

祖父は苦しそうに母にすがりながら「もうだめかも知れん」と言っていたことが印象に残っている。父や母と手を取り合いながら最後の言葉を言っていた。わたしも祖父の手を握った。はじめて祖父に触ったなあ、と思った。祖父の手はとても冷たく死に往く者の手という感じがした。

祖父はわたしに苦しそうな、とても聞き取り辛い声で「お母さんを助けるんだよ」「よく勉強するんだよ」「いままでありがとう」と言っていたことを覚えている。

 

両親が医者と話をしているとき、祖父と二人きりになったときがある。祖父はわたしの部屋に虫がたくさん入ってくることを心配してくれて、一度窓を閉め切って殺虫剤を撒いておいておくといいと教えてくれて、そして「(わたしの名前)くんは虫に好かれるんだなあ」と軽い冗談を交わし笑いあった。初めて祖父と笑いあったんじゃないかと思う。

 

祖父は死の淵にあって、わたしに「カメラはあるか?」と聞いてきた。なんとなくカメラを持ってきたわたしは、「あるよ」と言ったら「写してくれ」と言った。わたしは母と手を取り合ってる祖父の写真と、モルヒネが効いて眠っている祖父の写真を撮った。

 

 

次の日、祖父は二人の娘(母と遠方に住む叔母)と一緒に夜を明かしてそして亡くなった。

 

 

 

葬式についてはとくに思うことはない。ただ、祖父は奉仕精神があったのか、鶴見大学献体に申し込んでいた。そのために葬式が終わると大学の職員が祖父の遺体を持っていってなんとも呆気のない終わり方だった。最短で二年後に骨になって戻ってくるらしい。

 

 

わたしは、ここ最近、どこかで祖父のことを考えている。涙が出るほど悲しいわけではなかったのに、どこかでひっかかっている。それは、きっとわたしが思っていたよりも事が進むのが「早かった」ということと「突然だった」ということだろう、と推察している。

一緒に住み始めて1年。ちょうど1年というときに祖父は前触れもなく家に帰ってこなかった。そしてわずか40日の入院生活で呆気なく、わたしの人生から消え去ってしまった。

 

祖父の気配が濃厚に漂っている祖父が住んでいた家に住んでいるから、忘れることは難しいけれど、きっと時間が押し流してくれるんじゃないか、と思う。

 

 

それにしても、鎌倉は住みにくい土地だ。

 

 

 

 

追記1

わたしが思うことはとりあえず書き尽くしたつもりだ。

しかしこれで、果たしてわたしが書きたいことが本当に書けたのだろうか。

 

 

追記2

 

これは祖父が死の淵で書き残したという辞世の句だ。

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家族の誰もが、わたしを含めて、解読できていない。二行目から始まり、最終行が最初の行に来ている。誰か分かったら教えてください。