しろいはなび

twitterでは手狭に感じてきたのでブログを始めてみました。

物語としてのポケモンGO

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ポケモンGOの面白いところは現実の世界にポケモンというレイヤーをかけたことで、これって物語としての原初的な姿なんじゃないだろうか、と思っている。

 

現実世界には物語――フィクションと言ってもいいのかもしれない――で溢れている。たとえばディズニーランドとかもそうで、現実には存在しなかったウォルトディズニーの頭の中だけに存在したキャラクターが現実世界に出てきて、握手をしたり記念撮影をしたりしている。そして実際の街が形成されている。

そう大がかりな仕組みでなくても亀有に行けばなんとなく「あ~ここが両津さんの……」と思うだろう。それは現実世界上に物語と言う層が上書きされている。

 

たとえばお金だってそうだろう。お金はもっとも多くのひとが信じているフィクションだ。あの紙や金属の破片に多くの人が価値を見出しているために成立している。だからその物語の価値を脅かす偽札は厳しく罰せられている。

 

わたしたちが普通に信じている年号もそうだ。2016年前にキリストという神の子が生まれ世界を救う物語が元になっている。キリスト教を信じているものにとって自明の物語だけれど、キリスト教を信じていない人間にとっては、ただの空想の物語にすぎない。

 

言ってみればポケモンは心霊現象と似ている。ポケモンGOをやっているひとにとってポケモンそこにある。不忍池にはコイキングがいるし、道端にはコラッタやポッポがいて、どこかの公園にはカイリューが存在しているし、そこの郵便局はジムだ。だけれど、ポケモンをやっていないひと(つまり幽霊が見えないひと)にとっては、その存在は無い。コイキングはいないしコラッタはいないしカイリューは存在していないし、そこはただの郵便局だ。だからこそポケモンGOをプレイしていないひとにとって奇異に写る。

 

物語と現実の境界、というのは定型文で揶揄されることも多いけれど、その区別というのは昔から曖昧だった。ポケモンGOは新たな物語の語り方の一つなんじゃないか、と思うし、これからもっと位置情報ゲームが増えて新たな物語の可能性を見てみたいと思う。