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しろいはなび

twitterでは手狭に感じてきたのでブログを始めてみました。

清廉性とは言葉遊びである

清廉という言葉を大辞林で引いてみると「心が清らかで、私欲のない・こと(さま)」とある。

 

昨日の続きでホステス経験のある学生が清廉さに欠けるとして内定を取り消された問題について考えてみたいと思う。

 

わたしは「清廉」という言葉にみんな引き摺られていて本質を見誤っているんじゃないかと思う。清廉という言葉を辞書で引いてみると心が清らかで私欲がないことを指しているのだけれど本来、そのようなひとは居ない、とまでは言わないもののほとんど達成が難しい条件であると思う。人間生きている限り私欲はあって当然だし心が清らかである、などということは自分から見えるものではない。

 

女性に求められる清廉さ(処女信仰)、ということはたびたびフェミニズム界隈では取り沙汰されていて、それが女性への差別に繋がっていると指摘される。本当にそのようなことを社会や男性が求めているのだろうか。

 

 

 

わたしの体感からも言えることであるし、女性ファッション誌を見れば一目瞭然であるように、多くの男女が付き合ったり離れたり、誘われたり誘ったりしているだろうし、男性だって日々女性にアプローチしているのだから「誰かが既に手をつけている」ことが清廉さを欠くことにならないということは承知しているのではないだろうか。

 

AKB48で恋愛報道が頭髪を剃ることにまで発展する炎上案件になってしまうのは支持層の年齢層が低いからではないだろうか。声変わりもしていないような少年がクラスの女子に話しかけることさえままならないような生活をしているから、男性と親密に歩いているというだけで汚らわしいもののように見え糾弾するのではないだろうか、そしてその糾弾は文章となってネット上を浮遊する。ネット上の文字には声変わりしてるかとか喉仏が出ているか髭が生えているか陰毛が生えているかという情報が付与されないのであたかもマトモな成人男性の意見と一緒くたになって燃える燃料になるんじゃないかと思う。

 

それらの糾弾を見かけた女性が過剰に清廉さ、処女性を内面化し、規律しているんじゃないだろうか、と思う。ホールデン・コールフィールド式のイノセンスさは2014年にはもはや有効ではない。

 

 

パパは「この国には肉食の文化が無いから。みんな我々のように乳のみ仔牛から腐りかけの成牛までのいろんな肉の味わいの差だとかジビエの血の味の事とかが解らない。だから子供の裸ばかりを有り難がるんだ。一種の国家的変態だよ」っていうお得意の演説で腐りかけの成牛みたいなママを喜ばせている

 

 

VENDOME,LA SICK KAISEKI

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