摩耗してしまったのかもしれない
photo by Adam Foster Photography
わたしが高校生だったころ、難しそうな日本文学はきっと若造の自分には「分からない」と思って敬遠していた。それでも舞城王太郎との電撃的な邂逅や西尾維新の見たこともない文体や佐藤友哉の破綻しながらもタイヤの一輪になっても進み続ける物語に新鮮な驚きがあった。それ以外にもサリンジャーや谷崎潤一郎や沼正三やスティーブンキングなどの作品世界に酔いしれながら読むことができた。
だけれど、ここ数年は自分のなかで、どうも小説世界にどうも以前ほど肉薄することができなくなっていることに最近気が付いた。どうも、一歩引いたような位置でその作品の行方を見守るような感じでしか読むことができない。
それは映画を見るときもそうだ。映画は確かに楽しいけれど、それでも以前ほどどっぷり浸かることはできず足湯につかっているような、もどかしさを感じる。
わたしはいつの間にか、空想の世界から締め出されてしまったのだろうかと思って、少し悲しくなった。
それとも、わたしにも入国が許された物語世界がどこかにあるのだろうか。それを期待しながら今日も本を、映画を、そして手を取る。諦めながらも諦めきれず、かすかな希望。